今朝は百日紅の花びらの紅が一段と赤く色づき、日差しが強い。あの日もこんな朝だったような気がする。小学校に入学した年の、初めて迎えた夏休み。庭の百日紅が燃えるような赤色に見えたのを覚えている。広島に原子爆弾が落とされ、広島市は瓦礫と化した日である。
人類史上、稀に見る凶悪・非道な殺戮である。この事は時間がいくら経過しても、決して広島市民にとっては忘れることが出来ない出来事である。いや、日本人、いや全人類全てが忘れてはいけ出来事である。
当時、小学校1年生であった私は、広島市より離れた所に住んでいたので、直接の原爆の被害は受けないで生きながらえて来たが、親類縁者には直に被爆して犠牲になったものも多い。
現在、あの時から66年の歳月が経過し、原爆に直接遭った人も少なり、メディアや書物でしかあの悲惨な出来事を知る事が出来なくなった。人間の心の中で風化が進み、あの時起きた地獄のような悲惨な状況も、世間からだんだんと忘れ去られて仕舞うような危惧を感じている。
あの日から見れば、今年は66年後の日本の未来である。「ノーモア 広島」を掲げて立ち上がった人々の中で、66年後の日本の未来に、福島の原発事故を誰が予測しただろう。原発は原爆と違うのか。もしかして、原爆が原発と言う言葉に入れ代わった事に起因する出来事なのか。よく考えると原爆も原発も同じであることに気が付く。原爆の犠牲になった学者の中でも「原発の平和利用」なら、と言うことで、原発を使うことに前向きな学者もいたと聞く。その理由は、原爆で大変な犠牲を払ったのだから、その経験を生かして「平和のために原爆を使う」のなら、と言うことであった。
しかし、原発は最終的に人間が制御できない代物である。凶暴な「お化け怪獣」なのである。文明の力で作ったのは良いが、最終的には人間の命令を聞かないお化けなのである。詰まる所、人間が作りあげた文明にしてやられたわけである。それを「平和利用」すると言う考えが、そもそも間違いの始まりである。「絶対に安全である」と言う根拠は何処から出てきた言葉なのか、原発に精通した人からはこんな言葉は出てこないはずである。さすれば…。
今朝、平成23年8月6日 8時15分の原爆犠牲者への追悼、平和への祈りには特別な気持ちのこもった祈りで有った。
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